愚痴や悪口は用法・容量を守れば言っていい
「愚痴や悪口を言うのは暇な奴がやることだ」というようなことを言われることがあります。
愚痴や悪口を言って状況が良くなるわけではありませんし、聞いている相手の時間を奪いかねません。
でも、本心から愚痴がない人なんているでしょうか。何をされても聖人君子のように許せたり、反対に何をされても全く意に介さない人の方が少ないのではないでしょうか。
私は、駅のホームで人にぶつかられたときなど、決して言葉にはしませんが、頭の中でここに書けないような汚い言葉で相手に文句を言っています。この時の頭の中の自分はケンシロウです。
1分もすると怒りが昇華されてきて、今度は「さっきの人にも何か大変な事情があって急いでいたのかもしれない」「自分が気づかなかっただけで、ゴメンネという仕草があったかもしれない」と、想像することができるようになります。
そうすると、ぶつかられたことは嫌だったけど仕方ないかと許せるようになります。
こうして、嫌だったという気持ちを正視して対応することで、次に会う人に「嫌なことがあったのに何事もなかったかのようにふるまう大人」を演じずにすみます。
もし次に会った人との間で何かアクシデントが起きたとしても「この人まで私に対してそんなことをするのか」と、全く関係のない怒りを投影をしてしまうことを避けられます。
同じように、怒りや悲しみを正視して対応するための方法として、人に聞いてもらうというやり方があります。これが「愚痴や悪口を言う」にあたります。
人に聞いてもらうとやっぱり格段にラクになるし、新たな視点を得ることができます。共感しあうことができれば楽しいし、もしかしたら相手もラクになるかもしれない、人に聞いてもらうことについていいことはたくさんあると思います。
ただ、聞いてくれる相手があってこそできることなので、気を付けることもあります。
話しても大丈夫という心理的な安全性が確保されている相手だけに限定すること、愚痴や悪口を言う時間を決めること、聞いてくれた相手に感謝することです。
愚痴や悪口は、気持ちの状態によっては対象が広がってしまうことがあります。はじめはAについて愚痴を言いたかっただけなのに、Bも、そういえばCも…というような感じです。
そうならないためにも「愚痴を30分聞いてくれる?」というように時間を決めてしまった方がいいのかもしれません。
そして愚痴タイムが終わったらきれいさっぱり切り替える。また、どんなに親しい間柄だったとしても、聞いてくれた相手に感謝の気持ちを持つことはとても大切なことだと思います。
こうして書いている私自身もまだまだ練習の途中なのですが、それでも以前に比べればずっと怒りや悲しみに対応することが上手になってきました。
愚痴や悪口を言っているときの人は醜く見えてしまうから、見たくないかもしれません。でも、本当は嫌だと思っている気持ちをなかったことにすることで、結局はボヤキやブラックジョークのような形で漏れ出てしまう。それもちょっと醜いなと思います。
愚痴や悪口に早く対応できるかっこいい大人になるためには、愚痴や悪口の出し方を練習する必要があると思います。
いつも内面まで美しい人でいたいけど、今はできないってこともある。それならしっかりと吐き出せる場所を準備して、その中でだけはオッケーにする、というやりかたもあるんじゃないかな。